浄土真宗 法事

法事の主役はあなたです

法事とは、故人さまから「あなた」に届けられた仏縁です。そのご縁に感謝し、仏さまの教えを聞くことが、故人さまへの何よりの供養に。法事の本当の意味を優しくお伝えします。

公開日: 2025/8/16
  • 「法事って、形式的で、正直ちょっと面倒だな…」
  • 「一体なんのために法事を勤めるんだろう?」

そんなふうに、心のどこかで感じてしまったことはありませんか?

とくに、幼い頃に法事を経験された方は、その印象が強いのではないでしょうか。

じっと座っていなければならない。話してはいけない。

ただただ静かにしているだけの時間は、子供にとって非常に苦しいものです。

そうした記憶から、法事に対してあまり良い印象がない、という方も少なくないでしょう。

大切な故人を偲ぶ気持ちはもちろんあるけれど、その儀式的な側面に少しだけ戸惑ってしまう…。

きっと、多くの方が同じような気持ちを抱えているのではないでしょうか。

今日は「法事の本当の意味」について、そして「なぜ法事の主役が、亡くなった方ではなく“あなた”なのか」という、ちょっと意外に思えるお話を、仏教の教えを交えながら、できるだけわかりやすく解き明かしていきます。

「仏教の話って、なんだか難しそう…」

と感じている方も、どうぞご安心ください。

この記事を読み終えるころには、法事に対する見方がガラリと変わり、手を合わせる時間が、あなたの心をそっと照らすヒントが、きっと見つかるはずです。

それでは、はじめていきましょう🎵

*この記事は以下のポッドキャストの文字起こしを元に作成しています。

目次

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そもそも、法事の主役ってだれなんでしょう?🤔

いきなりですが、あなたに質問です。

「法事の主役は誰ですか?」

こう聞かれたら、どのように答えますか?

一周忌、三回忌、あるいは納骨など、様々な法事がありますよね。

これらは一般的に「亡くなった方のためにしてあげるもの」「故人を供養するもの」と認識されていることが多いと思います。

「それはもちろん、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんでしょ?」

「ご先祖様のためじゃないの?」

そう考えるのが、一般的かもしれませんね。

もちろん、そのお気持ちはとても大切です。

しかし、仏教、とくに浄土真宗の教えでは、少し違った視点を持っているんですよ。

故人は、あなたと仏様をつなぐ「架け橋」

実は、法事の本当の主役は、亡くなった方やご先祖様ではなく…

ほかならぬ、今ここにいる「あなた自身」なのです。

「え、どういうこと?私が主役なの?」

きっと、そう驚かれたかもしれませんね。

なぜ、あなたが主役なのでしょうか。

その理由は、とてもシンプルです。

今日、この法事というご縁に巡り会い、この場所に足を運んでくださったのは、あなただからです。

そして、静かに仏様の前で手を合わせ、お念仏を口にしているのも、あなた自身だからなんですね。

故人様は、いわば「あなたと仏様をつなぐ、大切な架け橋」になってくださった存在です。

その架け橋がなければ、私たちは仏様の教えに出会う機会も、こうして静かに自分と向き合う時間も、得られなかったかもしれません。

そう考えると、故人様が遺してくださった「ご縁」に、一番感謝し、そのご縁を喜ぶべきなのは、他の誰でもない、あなた自身だということに気づかされますよね。

私たちは「完璧じゃない」から、救われるんです🍀

法事の時間は、日常とは少し違う「非日常」の時間です。

日常を生きる私たちは、つい色々なことにイライラしたり、誰かを羨ましく思ったり、自分の弱さや未熟さに自己嫌悪を抱いてしまったり。。。

法事の場で心を静かに落ち着けて座っていると、日常ではなかなか気づけない、そうした自分自身の姿と向き合う良い時間になります。

浄土真宗の教えでは、そんな完璧ではない私たちだからこそ、仏様の救いの対象であると考えます。

私たちは、欲望や怒り、妬みといった様々な煩悩から決して離れることのできない弱い存在(凡夫)です。

弱い私たちだからこそ、放っておけない。

「そのままで大丈夫だよ、そのままでいいんだよ」

と、大きな慈悲の心で、阿弥陀さまはいつでも私たちを抱きしめてくださっているのです。

日々の生活の中では、ついイライラしてしまったり、誰かをうらやましく思ったり、欲に流されてしまったり…。

自分の弱さや未熟さに、自己嫌嫌に陥ってしまうこと、ありますよね。

でも、大丈夫なんですよ。

浄土真宗の教えの根っこには、とても温かい考え方があります。

それは、「私たちは、欲望や怒り、嫉妬といった煩悩(ぼんのう)から決して離れることができない、弱い存在(凡夫(ぼんぶ))である」という視点です。

「煩悩」や「凡夫」なんて言葉を聞くと、なんだか難しく感じてしまいますが、これは、いわば「完璧じゃない、ごく普通の私たち」のことなんです。

仏教には、自分の力で厳しい修行を積んで悟りを開こうとする「自力(じりき)」という考え方もあります。

これは、いわば「自分の力だけで、なんとか頑張ろうとすること」ですね。

一方で、浄土真宗が大切にしているのは、「他力(たりき)」という考え方です。

これは、決して「他人まかせ」という意味ではありません。

自分の力の限界を知り、阿弥陀様という大きな存在の力に、すべてをそっとおまかせすること。

いわば「大きな優しさに、安心して身を委ねること」なんです。

つまり、「立派な人間だから救われる」のでは、まったくないんですよ。

むしろ、「弱い私たちだからこそ、阿弥陀様は決して見捨てず、そのままのあなたを必ず救ってくださる」というのが、その教えの温かい核心なんです。

迷ったり、悩んだり、腹を立てたり…。

そんな不完全な私たちだからこそ、阿弥陀様は「そのままで大丈夫だよ」と、大きな慈悲の心で、いつでも私たちを抱きしめてくださるんですね。

回向の真意〜功徳はあなたに返ってくる〜

法事でお経を読んだあと、最後に「回向文(えこうもん)」というお経をお唱えするのを、耳にしたことがあるかもしれません。

具体的には、

願以此功徳(がんにしくどく) 

平等施一切(びょうどうせいっさい)

同発菩提心(どうほつぼだいしん)  

往生安楽国(おうじょうあんらくこく)

というものです。

「回向」とは、「回して向ける」と書きます。

いったい、何が回って、どこへ向かうのでしょうか?

「きっと、私たちが手を合わせた気持ちが、故人に届くってことだよね?」

はい、その通りです。

しかし、その功徳は、何倍にもなって巡り巡って、私たちのところに返ってくるのです。

まるでブーメランのように。

表面的には、亡くなった方のために手を合わせています。

しかし、その行いは決して一方通行ではありません。

故人様からいただいたご縁によって、私たちは仏法に出会う機会をいただき、その感謝の気持ちがまた温かい光となって自分自身に返ってくるのです。

この「心のキャッチボール」こそが、「回向」の本当の意味です。

「この時間は、実は自分のためだったんだな」と受け止めてみると、法事で手を合わせる時間が、とても尊いものに感じられるのではないでしょうか。

法事は、忙しいあなたのための「心のデトックス」時間だったんです🧘‍♀️

法事の席で、こんな言葉をよく耳にします。

「本日はよくお参りくださいました。きっと、故人も喜んでいると思います」

もちろん、故人様も喜んでおられることでしょう。

でも、本当に喜びに気づくべきなのは、まずあなた自身なのかもしれません。

なぜなら、法事で手を合わせるという時間は、慌ただしい日常から少しだけ離れて、大切なことを思い出させてくれる、「心のデトックス」のような時間だからです。

故人様は、私たちに「感謝する心」や「謙虚になることの大切さ」を、改めて学ぶ機会を与えてくださっているんですね。

考えてみてください。

忙しい毎日の中で、私たちはつい感謝の心を忘れがちです。

何か良いことがあっても、「自分が努力したから当然だ」と心のどこかで思い、知らず知らずのうちに、謙虚さを失ってしまうこともあります。

しかし、「手を合わせる」という行為は、「感謝」の心の象徴です。

もしその日に何か良い出会いや出来事があれば、「今日、こんないいことがありました。ありがとうございます」と、自然と心の中で報告するかもしれません。

その時、私たちは気づくはずです。

良い結果が生まれたのは、自分の力や能力だけのおかげじゃない。阿弥陀様やご先祖様といった、目には見えないけれど、いつも自分を見守り、支えてくれている大きな存在のおかげでもあるんだな、と。

この「おかげさま」の心に気づくとき、私たちの心には、自然と感謝と謙虚さが育まれていくのです。

この静かな時間は、私たちが生きていく上で、大きな力となり、精神的な支え、そして心の拠り所となってくれます。

忙しい毎日であればあるほど、この「心のデトックス」の時間を、大切にしたいものですね。

法事の主役はあなたである証✨

ここまでお話ししてきたことこそが、法事の主役があなたである理由です。

故人様は、あなたに仏様と向き合い、また、あなた自身と向き合うご縁という「架け橋」をかけてくださいました。

そして、感謝の心と謙虚さを思い出す大事な時間を「プレゼント」してくださったのです。私たちはそのご縁と慈悲に気づかされ、ただ「ありがとうございます」という気持ちで、お念仏をいただくのです。喜ぶべきは、あなたなのです。

そうは言っても、大切な方を亡くされた悲しみの中で、すぐに「喜びなさい」と言われても、それは難しいことでしょう。

しかし、回忌を重ねていくにつれて、悲しみは少しずつ喜びや感謝、「ありがたい」という気持ちへと変わっていくはずです。

まとめ

さいごに、この記事のポイントをまとめておきましょう。

✅ 法事の主役は、故人様が架け橋となってくださったご縁をいただいた、「あなた自身」です。

✅ 私たちは完璧じゃなくても大丈夫。
阿弥陀様は「そのままのあなた」を、まるごと救ってくださいます。

✅ 功徳は、ブーメランのように自分に返ってきます。

✅ 法事は、感謝と謙虚さを取り戻すための、大切な「心のデトックス」時間です。

✅ 大切なのは「真心」。一日一秒でも、感謝の気持ちで手を合わせてみましょう。

完璧な人生を目指す必要は、まったくありません。

大切なのは、日々の暮らしの中で、ふとした瞬間に感謝の気持ちを思い出し、そっと手を合わせる時間を持つことです。

ご家庭にお仏壇がなければ、食事の前に「いただきます」と手を合わせるだけでも素晴らしいことです。ほんの数秒でも構いません。

その小さな習慣が、あなたの心を少しずつ、温かく照らしてくれるはずです。

ぜひ、あなたの生活の一部に、この「感謝の時間」を取り入れてみてくださいね。

そして、この「手を合わせることの大切さ」を、あなたの周りの大切な方へも、伝えていただけたら、これほど嬉しいことはありません。

さいごまでお読みいただき、本当にありがとうございました。