
【浄土和讃のやさしい解説】第7回「清浄光明」
阿弥陀さまの「清浄光明」は、業(カルマ)の束縛すら消し去る究極の光。和讃を現代語で解きほぐし、その深い意味を味わいます。
「どうしてこんなに心が縛られるんだろう」
「過去の行いが重くのしかかって、前に進めない気がする」
そんなふうに感じることはありませんか?
仏教では、その原因を「業(ごう)」、つまりカルマと呼びます。
そして、その束縛を超えていけるのが、阿弥陀さまの「清浄光明」だと説かれているのです。
今回は、正信念仏偈に登場する和讃の一つを取り上げ、その意味をやさしく味わっていきたいと思います。
難しい言葉も出てきますが、ひとつひとつ現代語に解きほぐしながら進めていきますね。
それでは、はじめていきましょう🎵
*この記事は、以下のポッドキャストの文字起こしを元に作成しています。
目次
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🕯️ 和讃のことば
今回のテーマとなる和讃はこちらです。
清浄光明ならびなし
遇斯光のゆへなれば
一切の業繋ものぞこりぬ
畢竟依を帰命せよ
ぱっと見ただけでは意味がとりにくいですが、言葉を区切りながら見ていくと、少しずつその世界が開けてきます。
✨ 「清浄光明ならひなし」
最初に出てくる「清浄(しょうじょう)」とは、「きよらか」という意味です。
そして「光明(こうみょう)」は、阿弥陀さまの智慧の光を表します。
つまり「清浄光明」とは、「濁りのない澄んだ智慧の光」ということ。
「ならひなし」とは「比べるものがない」という意味になります。
ここでは、阿弥陀さまの智慧の光は、他に並ぶものがまったくない。
どんなものよりも抜きん出ていて、比べようがないほどすぐれている──そう讃えているのです。
🌅 「遇斯光のゆへなれば」
続く「遇斯光(ぐしこう)」の「遇」は「めぐりあう」という意味です。
「斯」は英語で言うところの「this」に当たります。
なので「斯光(しこう)」とは「この光」、すなわち阿弥陀さまの光のこと。
「ゆへなれば」は「理由であるから」ということです。
つまり「遇斯光のゆへなれば」とは、「この光に出会うことができたからこそ」という意味になります。
ここで大切なのは、ただ「光がある」というだけではなく、「その光にめぐり会う」ことに意味があるということです。
どれだけ尊い教えがあっても、それに出会わなければ、私たちの人生を変えることはできません。
出会えたこと自体が、すでに大きなご縁なのです。
🔗 「一切の業繋ものそこりぬ」
ここで出てくる「業(ごう)」は、仏教でよく耳にする言葉です。
サンスクリット語の「カルマ」を翻訳したもので、「行い」や「働き」という意味を持ちます。
行動も、口から出る言葉も、心の中で思うことも──すべてが「業」になります。
「繋(け)」は「つながり」や「しばりつけるもの」。
つまり「業繋」とは「業による束縛」を表しています。
「のそこりぬ」とは「すっかり消え去る」という意味です。
したがって、「一切の業繋ものそこりぬ」とは、阿弥陀さまの光に出会うことで、私たちを縛っている業のつながりがすべて消えていく、ということを示しています。
これは「どんなに深い罪でも、必ず消え去る」という強い救いのメッセージでもあります。
🏡 「畢竟依を帰命せよ」
最後に出てくる「畢竟依(ひっきょうえ)」は少し難しい言葉です。
「畢竟」とは「究極」「最後まで行き着いたところ」。
「依」とは「よりどころ」という意味です。
つまり「畢竟依」とは、「究極のよりどころ」のこと。
そして「帰命(きみょう)」とは、「身を投げ出しておまかせする」ということです。
したがって「畢竟依を帰命せよ」とは、「究極のよりどころである阿弥陀さまに、すべてをおまかせしなさい」 という呼びかけになるのです。
すべてをまとめて現代語訳をしてみると、
阿弥陀仏の放つ清らかな光は、他と比べるものができないほどすぐれたものです。
この光に出遇うと、どんな重い罪や煩いも、完全に消えてしまいます。
だから、最終的には、その光にすがりつつ生きていきましょう。
という味わいができるでしょう。
🌿 善い業もまた執着から生まれる?
ここで少し、「業」というものを掘り下げて考えてみましょう。
私たちは「業」というと、罪深いものや悪い行いを思い浮かべがちです。
しかし、実際には善い行いも「業」に含まれます。
たとえば、お母さんが子どもに「早く宿題をしなさい」と声をかける場面を想像してみましょう。
子どもが「わかったよ」と答えて勉強を始めれば、一見すると善い行動のように思えますよね。
でも、その裏には「お母さんに怒られたくないから」という思いや、「早く終わらせて遊びたいから」という欲が隠れている場合もあります。
つまり、表面的には善に見える行動でも、その奥には「自分中心の思い」が潜んでいることが多いのです。
仏教では、この「自我への執着」を大きな問題とします。
なぜなら、執着がある限り、どんな善い行いも結局は自分の欲望を満たすためになってしまうからです。
🌌 阿弥陀さまの光にゆだねる
ここで、和讃の大切なポイントが浮かび上がります。
阿弥陀さまの智慧の光は、そんな私たちの執着すらも消し去ってくれるのです。
どれだけ業が深いと感じても、
どんなに「自分中心だ」と気づいても、
そのすべてを光が包み込み、消していってくださる。
だからこそ、最後の「畢竟依を帰命せよ」という言葉に行き着くのです。
究極のよりどころは、やはり阿弥陀さましかない。
私たちは「ただおまかせする」ことで救われていくのです。
✅ まとめ
さいごに、今回の和讃から学んだポイントを整理しておきましょう。
- 「清浄光明ならひなし」…阿弥陀さまの智慧の光は、比べようのない清らかな光である。
- 「遇斯光のゆへなれは」…その光に出会うこと自体が、大きなご縁である。
- 「一切の業繋ものそこりぬ」…どんな業の束縛も、光によって消し去られる。
- 「畢竟依を帰命せよ」…究極のよりどころは阿弥陀さまであり、私たちはただおまかせすればよい。
「自分は執着だらけだ」と気づくことができたときこそ、光に照らされるチャンスです。
どうかあなたの日常の中でも、「阿弥陀さまの光にゆだねて生きる」という感覚を思い出してみてくださいね。
さいごまでお読みいただき、本当にありがとうございました。