
【浄土和讃のやさしい解説】第2回「誓願不思議」
浄土和讃・冠頭讃第二首を解説。阿弥陀さまの誓願を疑う心がどんな結果をもたらすのか。現代社会にも通じる「疑い」のテーマをわかりやすく説きます。
「人間って、つい疑ってしまうよね」
そんな思いをしたことはありませんか?
大切な人の言葉でさえ、「本当かな?」と心のどこかで構えてしまう。
現代社会は情報があふれ、何が真実かわからない時代ですから、ある意味当然かもしれません。
しかし、浄土真宗の教えでは、この「疑いの心」こそが、私たちを本当の救いから遠ざけてしまうのだと説かれます。
今回は、親鸞聖人が詠まれた浄土和讃の冠頭讃・第二首を取り上げ、その意味と現代につながる学びを紐解いていきます。
それでは、はじめていきましょう🎵
*この記事は、以下のポッドキャストの文字起こしを元に作成しています。
目次
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和讃の原文📜
誓願不思議をうたがいて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしく過ぐとぞときたまう
一見すると難解に思えるこの和讃。
まずは、一つひとつ言葉をほどいてみましょう。
「誓願不思議」とは?🙏
最初に出てくる「誓願(せいがん)」とは、阿弥陀さまの願いのことです。
「すべての人を救いたい」
この大いなる誓いを本願(ほんがん)と呼びます。
そして「不思議」とは、人間の理解をはるかに超えているという意味。
つまり「誓願不思議」とは、人知では測り知れない阿弥陀さまの誓いを指しています。
「うたがいて」とは?🤔
ここで出てくるのが「疑い」です。
「本当に阿弥陀さまは救ってくださるのだろうか?」
「こんな私が、本当に極楽に生まれるなんてありえるのかな?」
そうやって、つい疑ってしまう。
これは、誰もが共感できる感覚ではないでしょうか。
しかし和讃は、その疑いがやがて虚しさにつながることを教えています。
「御名を称する往生」とは?🕊
「御名(みな)」とは、阿弥陀さまの御名、つまり南無阿弥陀仏のことです。
「称する」とは、それを称える=口にして唱えること。
ですからここでは、
「疑いながらも念仏を称えて、往生しようとする」
そんな姿が描かれています。
「宮殿のうちに五百歳」とは?🏯
「宮殿(くでん)」とは、本物の極楽浄土ではなく、その仮の姿。
つまり、疑いながらの念仏は、表面的には救われたように見えても、実際は本物の浄土に生まれることはできないのです。
そして「五百歳」とは、非常に長い時間を表しています。
500年という数字自体が重要なのではなく、途方もない年月を虚しく過ごしてしまうという意味なのです。
「むなしく過ぐ」⌛
最後の「むなしく過ぐ」とは、そのまま「むなしく過ごしてしまう」ということ。
つまり和讃はこう伝えています。
「阿弥陀さまの誓願を疑いながら念仏しても、
一見は救われたようであっても、
実際には仮の浄土で長い時を空しく過ごすことになる」
というのが、現代語訳になります。
現代社会とのつながり💻
ここまでを読んで、
「でも、疑うことって大事じゃない?」
と思う方もいるかもしれませんね。
たしかに現代社会は、疑いなしでは生きていけません。
SNSにはフェイクニュースがあふれ、AIは本物そっくりの偽情報を作り出す。
詐欺の手口も巧妙になり、「まず疑う」ことが自己防衛の手段になっています。
しかし、この和讃が教えているのは、人間を超えた阿弥陀さまの誓いについてです。
日常生活での「疑い」とは次元が異なるのです。
人間の知恵を超えたものを、素直に受け取れるかどうか。
ここに大きな違いがあるんですよ。
阿弥陀さまの誓いを信じるということ💡
阿弥陀さまは「必ず救う」と誓われました。
私たちの命が尽きるそのときを迎えても、「安心して任せなさい」と語りかけてくださっています。
それを、赤ちゃんがお母さんに身をゆだねるように、ただ素直に信じる。
その心こそが、私たちを本当の救いへと導くのです。
まとめ✅
さいごに、今回のポイントを整理しておきましょう。
- 「誓願不思議」とは、人知を超えた阿弥陀さまの誓い。
- 疑いながらの念仏は、仮の浄土にとどまり、本当の救いには至らない。
- 「五百歳」とは、虚しく長い時間を過ごすことのたとえ。
- 現代社会では疑う心も大切だが、阿弥陀さまの誓いは疑わず素直にいただくことが大事。
大切なのは、阿弥陀さまの「必ず救う」という願いを、疑いなく「ありがとうございます」と受けとめることです。
あなたの人生の中に、ぜひこの信じる心を取り入れてみてくださいね。
さいごまでお読みいただき、本当にありがとうございました。