
【浄土和讃のやさしい解説】第6回「光雲無礙」
阿弥陀さまの智慧の光はどこにも妨げられず、すべてを照らし出す——そんな和讃の意味を、やさしく解説します。悩みや迷いの中にある心に寄り添う教えです。
人間はどうしても、見えない未来や自分の弱さに振り回されてしまいます。
「なんで私ばかり苦しいんだろう」「誰もわかってくれない」
——そんな孤独を覚えることもありますよね。
でも仏教の和讃には、そんな心をそっと包み込む大切なメッセージが込められています。
今日は、『正信念仏偈』に説かれる和讃を題材に、阿弥陀さまの知恵の光の意味を解き明かしていきます。
「漢字が多くて難しそう…」と思われるかもしれませんが、ご安心ください。
この記事を読み終えるころには、阿弥陀さまの光がどれほど大きく私たちを支えてくださっているのか、自然と心に落ちてくるはずです。
それでは、はじめていきましょう🎵
*この記事は、以下のポッドキャストの文字起こしを元に作成しています。
目次
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和讃の本文📜
今回取り上げる和讃はこちらです。
光雲無礙如虚空
一切の有礙にさわりなし
光沢かぶらぬものぞなき
難思議を帰命せよ
一見すると、漢字がずらっと並んでいて、読み下すだけでも難しく感じますね。
一つひとつ丁寧に解説していきましょう。
「光雲無礙如虚空」の意味☁️
「光雲」の「光」とは、阿弥陀さまの光明、つまり智慧を表しています。
その知恵を「雲」にたとえているのですね。
雲は大空に自由に広がり、どこまでも遮られることなく流れていきます。
「無礙」とは「妨げがない」「障害がない」という意味です。
そして「如虚空」は「大空のように」というたとえ。
つまり、
阿弥陀さまの知恵の光は、雲のように大空いっぱいに広がり、何ものにも妨げられることがない
——そういう意味合いになります。
「一切の有礙にさわりなし」😌
次に出てくる「有礙」という言葉。
先ほどに出てきた「無礙」の反対の意味となります。
なので、「悩み」「迷い」「煩悩」など、私たちの心をかき乱す障害・妨げとなるものを指しています。
ここで伝えられているのは、
「どんな悩みや迷いも、阿弥陀さまの光を遮ることはできない」
ということですね。
たとえ私たちが苦しみの中にあったとしても、その光は決して途切れません。
むしろ、煩悩のただ中にある私たちにこそ、阿弥陀さまの光が届いているのです。
「光沢かぶらぬものぞなき」🌟
「光沢」とは、光の潤いや輝きを意味します。
そして「かぶる」とは「受ける」ということ。
ここでは、
「阿弥陀さまの知恵の光を受けない存在は一つもない」
と説かれています。
つまり、誰ひとり取り残されないということ。
私たち一人ひとり、どんな境遇にあっても、必ずその光を浴びているのです。
逆に言えば、
「自分は救われないのではないか」と思ってしまうときでも、実はすでに光の中にいる。
その事実を思い出すことが、この和讃の味わいなのだと思います。
「難思議を帰命せよ」🙏
最後に出てくる「難思議(なんじぎ)」。
これは「思いはかることが難しい」「人間の理解を超えている」という意味です。
つまり、阿弥陀さまの知恵の光は、私たちの小さな理解や判断をはるかに超えたもの。
人間の理屈では計り知れないほど尊い存在なのです。
その光に対して、私たちはただ「帰命(きみょう)」する。
つまり、お任せしていくことが大切なのだと説かれています。
和讃の現代語訳📝
ここまでをまとめて、現代語に置き換えてみると——
阿弥陀さまの知恵の光は、まるで雲が大空に広がるように、どこにも妨げられることはありません。
どれほどの悩みや苦しみがあっても、その光を遮ることはできません。
すべての人がその光を受けており、誰ひとり漏れることはないのです。
その尊い光は、人間の理解を超えているからこそ、安心してお任せしていきましょう。
——こういう意味合いになるのですね。
「誰も見ていない」と思うとき👀
この和讃から学べることの一つは、「仏さまは常に私たちを見てくださっている」**という安心感です。
人はときに、「誰も見ていないから、まあいいか」と思ってしまいます。
「魔がさす」ということ、誰しもが一度は経験しているのでは?
ぼく自身も過去に、そんな気持ちから人さまに言えないようなことをしてしまった経験があるんですよね…
でも実は、その「誰も見ていない」と思っている瞬間も、仏さまは見てくださっているんです。
それは、罰を与えるためではなく、むしろ私たちが「良心」に触れるため。
仏さまと対話し、自分の良心に気づくとき、それはまさに光に照らされている瞬間なのかもしれません。
まとめ✅
さいごに、今回のポイントを整理しておきましょう。
- 阿弥陀さまの智慧の光は、雲のように大空に広がり、妨げられることがない。
- 煩悩や苦しみも、その光を遮ることはできない。
- 誰ひとり光から漏れることはなく、すべての人が照らされている。
- その光は人間の理解を超えたものだからこそ、安心してお任せすればよい。
つまり、どんなに孤独を感じても、どんなに悩みが深くても、あなたはすでに仏さまの光に包まれています。
「誰も見ていないから」と思うときこそ、仏さまがそっと見守ってくださっている。
そのことを思い出すだけで、きっと踏みとどまれることもあるのではないでしょうか。
どうか、今日の和讃の味わいを心に留めて、日々を歩んでみてくださいね。
さいごまでお読みいただき、本当にありがとうございました。