
【浄土和讃のやさしい解説】第8回「仏光照曜」
阿弥陀さまの光は、どんな闇も打ち破る究極の智慧。今回の和讃「仏光照曜最第一」を通じて、その意味と私たちの歩む道をやさしく解説します。
今回ご紹介するのは、『正信念仏偈』に出てくる和讃の最後のひとつ。
その内容は、阿弥陀さまの智慧の光が、どれほど私たちを導いてくださっているのかを讃嘆するものです。
親鸞さまのよろこびが溢れた和讃になっていますよ。
ぜひ、一緒に味わってまいりましょう🎵
*この記事は、以下のポッドキャストの文字起こしを元に作成しています。
目次
目次を読み込み中...
和讃の本文📜
仏光照曜最第一
光炎王仏となつけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供を帰命せよ
一見すると漢字ばかりで難しく見えますが、ひとつずつ解きほぐしていくと、とても身近に感じられる内容です。
それでは順番に見ていきましょう。
仏光照曜最第一 🌟
最初の「仏光照曜(ぶっこうしょうよう)」という言葉。
耳で聞くだけでは意味が取りにくいですが、文字を見ると「仏の光が照らして輝いている」ということが分かります。
そして「最第一」。
これは「一番すぐれている」「比べるものがないほど最高である」という意味です。
つまりここでは、阿弥陀さまの光は、この世のどんな光よりも最も尊く、最高の輝きである、と讃えているのですね。
光炎王仏となづけたり 🔥
次に「光炎王仏(こうえんおうぶつ)」。
これは「炎のように燃え盛る光の王」という意味です。
「王」という字は、単に支配者というだけでなく、「他に比べて最もすぐれている存在」を表します。
浄土宗では「本願」を「王願」とも呼ぶことがありますが、ここにも同じニュアンスが込められているのです。
つまり阿弥陀さまは、光の王として、あらゆるものを超えて輝いている存在。
その光は、どんな暗闇も打ち破っていく力を持っているのです。
三塗の黒闇ひらくなり 🌑➡🌅
続いて「三塗(さんず)の黒闇ひらくなり」。
「三塗」とは、仏教で説かれる六道の中でも、特に苦しみの深い三つの世界を指します。
- 地獄(じごく):もっとも苦しみの大きい世界
- 餓鬼(がき):飢えと渇きにさいなまれる世界
- 畜生(ちくしょう):弱肉強食の苦しみの世界
これら三つを合わせて「三塗(さんず)」と呼ぶのですね。
私たちは無明(むみょう)という暗闇に包まれた存在です。
「無明」とは、真実を知らないこと、そして迷い続ける心のことです。
阿弥陀さまの光は、この暗闇を打ち破り、私たちが進むべき道を照らし出してくださるのです。
大応供を帰命せよ 🙏
最後に「大応供(だいおうぐ)」。
これは「すべての人からもっとも尊敬されるにふさわしい仏さま」という意味です。
つまり、阿弥陀さまのことを指しています。
そして「帰命せよ」。
これは「命をかけておまかせしましょう」という意味になります。
すなわちこの和讃は、阿弥陀さまこそ私たちが心から帰依すべき仏であると、力強く語っているのです。
この和讃から味わえること💡
ここまで見てきたように、この和讃は次のように言い換えることができます。
阿弥陀さまの智慧の光は、すべての光の中でもっとも尊く輝いている。
その光は、炎の王の仏と呼ばれるほど強く明るい。
地獄・餓鬼・畜生という苦しみの世界に落ちていくような闇の中であっても、その光に照らされれば必ず道が開かれていく。
だからこそ、すべての人が尊敬し、信じて生きるべき仏さまに、私たちは安心して身をまかせていこう。
私たちは暗闇を歩く存在 🧭
この和讃を通して思うのは、私たち人間は本当に暗闇を歩いている存在だということです。
赤ちゃんが真っ暗な部屋をハイハイしているようなもの。
どこにぶつかるかも分からず、危なっかしくて仕方がない。
その暗闇の中を、阿弥陀さまの光が優しく、そして力強く照らしてくださっている。
だからこそ、私たちは迷うことなく歩んでいけるのです。
本来であれば、罪深い私たちは「三塗」に落ちて当たり前の存在です。
しかし、阿弥陀さまの光に照らされれば、必ず浄土へと導かれる。
親鸞聖人もまた、この事実を深く喜ばれていたのではないでしょうか。
まとめ ✅
さいごに、この記事のポイントを整理しておきましょう。
- 仏光照曜最第一:阿弥陀さまの光は、この世で最も尊い輝き。
- 光炎王仏:炎の王のように強く、他に比べものがない光の仏。
- 三塗の黒闇ひらく:地獄・餓鬼・畜生という苦しみの世界を打ち破る光。
- 大応供を帰命せよ:すべての人が帰依すべき仏さまに、安心して身をまかせよう。
阿弥陀さまの智慧の光は、私たちの心の迷いを照らし、どんなに暗い道でも進むべき方向を示してくださいます。
ただ、この光に照らされながら、少しずつ歩んでいけば良いのです。
さいごまでお読みいただき、本当にありがとうございました。