仏教は苦しみを取り除くのではなく、苦しみと向き合うための教えです

仏教は苦しみを取り除くのではなく、苦しみと向き合うための教えです

「なぜ人生は思い通りにいかないの?」その苦しみ、仏教の知恵で軽くなるかも。苦しみは消すのではなく”向き合う”もの。心がふっと軽くなる魔法の言葉「おかげさま」の意味と、日常で感謝を見つけるヒントを優しく解説します。

公開日: 2025/8/27

こんにちは!ヨシボウです。

  • なぜ私の人生、こんなに思い通りにいかないんだろう…
  • この苦しみ、早くどこかへ消えてほしい…

そんなふうに、心の重荷を感じて、立ち止まってしまうことはありませんか?

その気持ち、とってもよく分かります。

苦しいとき、そこから一刻も早く逃れたいと願うのは、ごく自然な心の働きですよね。

ぼくも、いつもそう感じてきました。

でも、もし仏教の教えが、その苦しみを「無理やり消す」のではなく、「上手に付き合っていく」ためのヒントをくれるとしたら、少し興味が湧いてきませんか?

今回は、多くの人が誤解しているかもしれない仏教の本質、つまり「苦しみとの向き合い方」について、その深くて温かい知恵を一緒に探っていきたいと思います。

「仏教って、なんだか厳しくて難しそう…」

「結局は、すべて我慢しなさいってことなんでしょう?」

そう感じている方も、どうかご安心ください。

この記事を読み終えるころには、思い通りにならない現実を、少しだけ優しい眼差しで受け入れられるようになり、心がふっと軽くなるはずです。

それでは、はじめていきましょう🎵

*この記事は以下のポッドキャストの文字起こしを元に作成しています。

目次

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仏教は「苦しみを消す魔法」ではない? 驚きの真実 🧠

「そもそも、仏教って苦しみから救ってくれる教えじゃなかったの?」

きっと、多くの方がそう思われているかもしれませんね。

もちろん、その側面もあるのですが、実は本質は少し違うんですよ。

仏教の教えの根幹には、「苦しみをゼロにする」という考え方よりも、

「この避けられない苦しみと、どう向き合い、どう付き合っていけばいいのか」

という、もっと現実的で、私たち一人ひとりに寄り添ってくれる「知恵」があるんです。

お釈迦様は、「一切皆苦(いっさいかいく)」という言葉を残されました。

「え、一切は皆、苦しいって…なんだか絶望的な響きだなあ」と感じますよね。

でも、これは「人生は不幸なものだ」と言っているわけではないんです。

ここでいう「苦」とは、自分の思い通りにならないことを指しています。

私たちの人生って、振り返ってみると、自分の思い通りになることなんて、ほとんどないのかもしれませんね。

これが、良いとか悪いとかではなく、いわば人生の「基本設定」のようなものなんだ、とお釈迦様は教えてくれているんです。

人生から苦しみを完全に取り除くことは、もしかしたら難しいのかもしれません。

ですが、その苦しみとの「関わり方」を知ることで、私たちの心のあり方は、驚くほど大きく変わっていくんですよ。

なぜ私たちは、こんなにも「思い通りにならないこと」に苦しむのでしょうか? 😥

考えてみると、現代は科学技術が本当に発達して、私たちの生活はびっくりするほど便利になりましたよね。

スイッチ一つで部屋は明るくなり、快適な温度に保たれる。

スマートフォンがあれば、世界中の情報にアクセスでき、誰とでも繋がることができる。

とても便利になったことで、私たちはどこかで、「物事は思い通りになるのが当たり前だ」という感覚を持ってしまっているのかもしれません。

そして、その「当たり前」が崩れたとき…つまり、目の前の現実が思い通りにならないことに直面したとき、必要以上に腹を立てたり、深い怒りを感じたりしてしまうのではないでしょうか。

「自分の思い通りにコントロールしよう!」と固執している時に限って、私たちは何か大きな過ちを犯してしまうことがあるような気がします。

例えば、子育てにおいても、「こういう子に育てたい!」という親の強い思いがあるあまり、子どもの意見に耳を傾けず、一方的に価値観を押し付けてしまう。

その結果、かえって子どもが道を踏み外してしまう…なんてこともあるかもしれません。

このように私たちは、思い通りにならないことに腹を立て、時には過ちを犯してしまう、とても弱い存在です。

欲望や怒り、嫉妬といった、いわゆる「煩悩(ぼんのう)」という心の働きから、完全に自由になることはできません。

「もっと立派な人間になりたい」

「もっと心が穏やかでいたい」

そう願いながらも、なかなかそうはいかないのが、私たち人間の偽らざる姿なんですよね。

弱い私たちを、決して見捨てない大きな存在 🙏

しかし、浄土真宗の教えの中心である阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏様は、そんな私たちのすべてを見抜いておられる、と説かれています。

どんな人間であっても、どんな人生を歩んでいても、たとえ過ちを重ねてしまったとしても、「決して見捨てることはない。必ず救いとる」と誓ってくださっている仏様なんです。

「立派な人間だから救われる、というわけではないんですね。」

むしろ、思い通りにならない現実に苦しみ、弱さを抱えた人間だからこそ、阿弥陀如来は無条件の慈悲で救ってくださるんですよ。

私たちが自分の力だけで苦しみを乗り越え、完璧な人間になろうとすることを「自力(じりき)」と言います。

いわば、険しい雪山を、たった一人で自分の足だけで登ろうとするようなものです。

その道は非常に険しく、多くの場合、かえって苦しみを深めてしまいます。

そうではなく、阿弥陀如来という大きな慈悲の力に、すべてをお任せする道を「他力(たりき)」と言います。

これは、麓から山頂まで安全に運んでくれる、温かいゴンドラに乗るような感覚に近いかもしれません。

その道こそが、私たちを真の安らぎへと導いてくれる、と教えられているんです。

「諦める」はネガティブじゃない?心を軽くする新しい視点 💡

「人生は、思い通りにならないことばかり…」

本当にそうですよね。

生きている限り、悩みや苦しみは次から次へと湧き上がってきます。

会いたくない人に会わなければならない苦しみ、大切な人との別れの悲しみ、そして自分自身の体の衰え…。

これらはすべての人に平等に訪れ、誰も避けることはできません。

でも、そんな人生であるからこそ、一瞬の楽しみや喜びが、ダイヤモンドのように輝くのではないでしょうか。

「美味しい!」と感じるものを口にした時の幸福感。

心から楽しいと思える仲間と過ごす時間。

愛おしい人と共有する、何気ない日常。

それらは人生全体で考えれば、ほんのわずかな時間かもしれません。

だからこそ、その一瞬一瞬が、かけがえのない美しい時間だと思えるのかもしれませんね。

苦しみという闇があるからこそ、小さな光がより一層輝いて見えるんです。

ここで、一つ大切な心の持ち方があります。

それは、「諦める」ということです。

「えっ、諦めるって、なんだかネガティブで、負けたような感じがする…」

そう思いますよね。

でも、仏教でいう「諦める」は、私たちが普段使う意味とは少し違うんですよ。

仏教における「諦める」とは、「明らかに見極める」という意味なんです。

自分の力でどれだけ頑張っても、どうにもならないことがある。

その現実をありのままに、素直に受け入れて、そのこだわりを手放していく。

それは、目の前の分厚い壁に、何度も何度も頭をぶつけ続けるのをやめて、「ああ、ここには扉がないんだな」と明らかに見極め、別の道を探しにいくような、賢明でしなやかな心の働きなんです。

この心の働きこそが、仏教でいう「忍耐(にんたい)」というものに繋がっていくんですよ。

「人生は思い通りにならない。それが普通なんだ」

この心持ちでいると、今まで「当たり前」だと思っていた日常が、まったく違う景色に見えてきます。

歩けること。

好きな人と話ができること。

美味しいと思えるものが食べられること。

これらは決して当たり前ではなく、一つひとつが言葉では言い表せないほど、「有り難い(ありがたい)」ことだったんだ、と気づかされるのです。

日常が輝きだす魔法の言葉「おかげさま」✨

このように、苦しみと向き合いながら生きる私たちが、日常生活で大切にしたい、本当に美しい言葉があります。

それが、「おかげさま」という言葉です。

「おかげさまで、元気にしています」

「おかげさまで、無事に終わりました」

私たちは何気なくこの言葉を使いますが、ここには本当に深い意味が込められているんですよ。

例えば、ここに一本の立派な木があったとします。

美しい葉を茂らせ、天に向かって伸びるその木を支えているのは、目には見えない地面の下の「根っこ」ですよね。

私たちの人生もまったく同じで、目には見えないたくさんの「おかげ」によって、初めて成り立っているんです。

  • いつもそばにいてくれる家族や友人。
  • 今日まで私たちの命を繋いでくださった、数え切れないほどのご先祖様。
  • さらには、空気、水、太陽の光といった、自然の尊い恵み。

数えきれないほどの「おかげさま」によって、私たちは今、この瞬間を生きているわけです。

よく考えてみると、「生きている」ということ自体が、本当に不思議で、有り難いことですよね。

自分の意思とは関係なく心臓が動き、呼吸をして、こうして言葉を交わすことができる。

これも決して当たり前のことではありません。

私たちは、自分の力だけで生きているのではなく、無数のご縁によって「生かされている」んです。

この「生かされている」という感覚こそが、阿弥陀如来の大きな慈悲を感じる入り口なのかもしれませんね。

私たちが気づかないところで、大きな存在が絶えず私たちを支え、見守り続けてくださっているのです。

朝起きたとき。

食事をいただくとき。

夜、眠りにつくとき。

そんな何気ない瞬間に、ほんの少しでも「おかげさま」という気持ちを思い出してみてはいかがでしょうか。

心の中で「ありがとうございます」と、そっと手を合わせてみる。

その小さな積み重ねが、私たちの心を豊かにし、苦しみと上手に付き合っていくための、しなやかな力を育ててくれるに違いありません。

まとめ

さいごに、この記事のポイントをまとめておきましょう。

✅ 仏教は苦しみを「消す」教えではなく、「向き合う」ための知恵を授けてくれる。

✅ 人生は「思い通りにならない」のが基本設定。それを知ることで心は楽になる。

✅ 私たちは煩悩を抱えた弱い存在。だからこそ、阿弥陀如来は無条件に救ってくださる。

✅ 「諦める」とは「明らかに見極める」こと。現実を受け入れるしなやかな心。

✅ 日常は「当たり前」ではなく、「おかげさま」という有り難い奇跡で溢れている。

苦しみを完全になくすことはできないかもしれません。

しかし、その苦しみの中にあっても、私たちを支えてくださる無数の「おかげさま」に気づき、大きな慈悲に包まれていることを感じることができれば、私たちの心はきっと、軽やかになっていくはずです。

完璧な人生を目指す必要はありません。

大切なのは、思い通りにならない現実の中で、足元に咲く小さな花のような「おかげさま」に気づき、その温かさを感じることです。

ぜひ、あなたの生活の一部に、「おかげさま」という優しい視点を取り入れてみてくださいね。

さいごまでお読みいただき、本当にありがとうございました。