冥福,弔電

浄土真宗では冥福を祈らない3つの理由

「ご冥福をお祈りします」は浄土真宗では使わないって本当?お葬式で失礼にならないか不安ですよね。現役僧侶が、冥福を祈らない3つの深い理由と、故人への信頼に満ちた温かい死生観を解説。いざという時に困らない代わりの言葉もご紹介します。

公開日: 2025/9/15

「謹んでご冥福をお祈りいたします…」

ニュースやお手紙(弔電)などで、きっと一度は耳にしたことがある、とても丁寧な言葉ですよね。

あなたも、誰かのためにこの言葉を送ったり、あるいは受け取ったりした経験があるかもしれません。

故人を偲ぶ、とても大切な言葉です。

でも、実は私たち浄土真宗の世界では、この「冥福を祈る」という表現は、用いないのが一般的なんですよ。

「え、そうなの!?じゃあ、なんて言えば失礼にならないんだろう…」

きっと、そう感じてしまいますよね。

ご安心ください。

これは決して、亡くなった方を軽んじているわけではないんです。

むしろ、その背景には、故人さまへの深い信頼と、いのちを見つめるとても温かい眼差しが隠されているんですよ。

この記事を読み終えるころには、浄土真宗ではなぜ「冥福」を祈らないのか、その深い理由がすっきりと理解できるはずです。

それでは、はじめていきましょう🎵

*この記事は、以下のポッドキャストの文字起こしを元に作成しています。

目次

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「ご冥福をお祈りします」に込められた、本来の意味とは?

まずはじめに、「冥福を祈る」という言葉そのものの意味を、少しだけ紐解いてみたいと思います。

「冥福」とは、「冥土(めいど)での幸福」を意味する言葉です。

「冥土って、よく聞くけど、具体的にはどんな場所なんだろう?」

そう思いますよね。

「冥土」とは、亡くなった方の魂が、次にどこへ生まれ変わるかの審判を待つ間、旅をするとされている世界のことです。

いわば、少し暗くて、道に迷ってしまうかもしれない、「魂がさまよう世界」というイメージなんですね。

「冥土のみやげ」なんて言葉もあるように、古くから私たちの文化に根付いている考え方です。

ですから、「ご冥福をお祈りします」という言葉には、「どうか、その暗く寂しい世界で迷うことなく、安らかに、そして幸せになってくださいね」という、残された者からの切なる「祈り」や「願い」が込められているわけです。

なるほど…。

亡くなった方を深く思う、とても優しい気持ちから生まれた言葉なんですね。

理由①:私たちは「冥土」ではなく「お浄土」へ還るから

さて、ここからが本題です。

では、なぜ浄土真宗では「冥福」を祈らないのでしょうか。

その一つ目の理由は、亡くなった方が行くとされる「行き先」が、そもそも「冥土」ではない、と考えるからなんですよ。

「えっ、冥土に行かないなら、どこへ行くの?」

とても良い疑問ですね!

私たち浄土真宗の教えでは、この世でのいのちを終えた方は、魂がさまよう暗い「冥土」へ行くことはありません。

阿弥陀(あみだ)さまという仏さまが作られた、この上なく清らかで美しい「お浄土(おじょうど)」という世界に、まっすぐに還っていく、と受け止めています。

先ほどの冥土が「暗くて不安な待合室」だとすれば、お浄土は「温かい光に満ちあふれた、私たちの本当のふるさと」のような場所です。

つまり、亡くなった方は、迷いの世界へは行かないのです。

必ず、光り輝く仏さまの世界へ、還っていく。

そう、確信しているんですね。

ですから、そもそも「冥土」での幸福を祈る、という前提が存在しないわけです。

これが、「冥福を祈らない」一つ目の大きな理由なんですよ。

理由②:すべての人は、阿弥陀さまに救われると「決まっている」から 🧘‍♀️

とはいえ、「本当にみんな、例外なくその『お浄土』へ還れるものなのかな?」と感じますよね。

生前の行いとか、いろいろ関係してくるんじゃないか、と。

実は、浄土真宗の教えの根幹には、阿弥陀さまの「お約束」という、非常に大切な考え方があるんです。

それは、

「どんな人であろうと、この私(阿弥陀仏)が、必ず、絶対に救いとり、お浄土へ生まれさせる」

という、力強いお約束。

この教えを「他力本願(たりきほんがん)」といいます。

「他力本願」というと、現代では「他人任せ」という、少しネガティブなイメージで使われることもありますが、仏教での意味は全く違います。

私たち人間の小さな力(自力)では、到底どうすることもできない「迷い」や「苦しみ」からの救いを、阿弥陀さまという、とてつもなく大きな力(他力)に、すべておまかせする、ということなんですよ。

なるほど…。

つまり、こういうことです。

亡くなった方は、私たち生きている者が「どうか安らかに眠ってください」「迷わずに成仏してくださいね」と祈るまでもない。

この世のいのちが終わると同時に、すでに阿弥陀さまによって救われ、お浄土で仏さまになっている、と。

すでに仏さまとして、穏やかな世界にいらっしゃる方に対して、私たちが改めて「どうか幸せに…」と祈る必要はない、ということなんですね。

これが、二つ目の理由です。

理由③:お葬式は、故人からいただく「感謝と学び」のご縁だから 🙏

ここまでお話を聞いて、「じゃあ、お葬式って、一体何のためにあるんだろう?」と、新たな疑問が浮かんできたかもしれません。

亡くなった方のために祈る場ではないとしたら、お通夜やお葬式という時間は、どのような意味を持つのでしょうか。

浄土真宗では、お葬式を「故人さまからいただいた、生きている私たちのための、大切なご縁」として受け止めるんですよ。

どういうことかというと、亡くなった方は、ご自身のいのちの終わりという姿を通して、私たちに「仏さまの教えに出あう、かけがえのないきっかけ」を、その身をもって作ってくださった、と考えるのです。

ですから、私たちが手を合わせる気持ちの方向は、少し違ってきます。

故人へ向かって「どうか安らかに…」と祈るのではなく、故人さまを「ご縁」として、その気持ちは、むしろ自分自身の内側へと還ってくるんですね。

「あなたのおかげで、阿弥陀さまの温かい教えに触れることができました。本当に、ありがとう」

「あなたの最期の姿を通して、限りあるこの自分のいのちを、もっと大切に生きていこうと、改めて思いました」

このように、故人さまへの「報恩感謝(ほうんかんしゃ)」の気持ちと、自分自身の生き方を見つめ直す、とても大事な機会として、お葬式のご縁をいただくのです。

祈りの方向性が、故人へ向けたものではない。

これが、私たちが故人のために「祈る」ということをしない、三つ目の理由です。

とはいえ、悲しい気持ちはなくならない…それでいいんです

「理屈はわかったけれど、やっぱり大切な家族や友人を亡くしたら、悲しくて、寂しくて、『ありがとう』なんて気持ちには、すぐにはなれないよ…」

本当に、そうですよね。

おっしゃる通りです。

悲しみの真っ只中で、無理に感謝の気持ちを探したり、前向きになったりする必要なんて、まったくありません。

涙が枯れるまで、泣いていいんです。

でも、不思議なもので、99%の「悲しい」「寂しい」「つらい」という気持ちの中に、たった1%でも、故人への温かい記憶や感謝の気持ちが、ふと顔を出す瞬間があるかもしれません。

「そういえば、あのとき、あんなことを言ってくれたな」

「あの屈託のない笑顔に、何度も救われたっけ…」

もし、そんな1%の小さな光を見つけたら、どうか、その気持ちを少しだけ大切にしてみてください。

今は気づけなくても、大丈夫です。

その小さな感謝の種が、あなたの心の中で、時間をかけてゆっくりと育っていき、いつか、凍えた心を温かく照らしてくれる、大きなお念仏の光となっていくはずですから。

まとめ

さいごに、この記事のポイントをまとめておきましょう。

  • ✅ 浄土真宗では、人は迷いの世界「冥土」ではなく、阿弥陀さまの**「お浄土」へ還る**と考えます。
  • ✅ 阿弥陀さまが「必ず救う」と約束してくださっているので、亡くなった方はすでに仏さまになっています
  • ✅ お葬式は、故人を縁として仏さまの教えにであい、生きている私たちが感謝し、生き方を見つめ直す大切な機会です。
  • ✅ だから、私たちは亡き人のために「冥福」を祈る必要がないのです。

もちろん、「ご冥福をお祈りします」という言葉を否定したいわけでは、決してありません。

その言葉の奥にある、故人を深く思う優しいお気持ちに、なんの違いもないのですから。

ただ、もしあなたが浄土真宗のご家庭であったり、ご縁があったりするならば、この背景を知っておくことで、より深く故人さまと、そしてご自身のいのちと向き合うことができるかもしれませんね。

いざというときには、「ご冥福を…」という言葉の代わりに、

  • 「お悔やみを申し上げます」
  • 「寂しくなりますね」
  • 「生前は、大変お世話になりました」

といった、あなたご自身の素直な気持ちや、感謝の言葉を伝えてみてはいかがでしょうか。

その方が、きっと、あなたの温かい心がまっすぐに届くはずですよ。

さいごまでお読みいただき、本当にありがとうございました。