迷信

日本人が一番信じているのは迷信説

「四十九日は三ヶ月にまたいではダメ?」そんな迷信に心がざわついた経験はありませんか。日本人がなぜ迷信を信じてしまうのか、その正体を仏教の視点からわかりやすく解説。情報に惑わされず、心穏やかに過ごすためのヒントが見つかります。

公開日: 2025/9/19

なんだかよくわからないけれど、昔からそう言われているから…。

そんなふうに、根拠のない言い伝えに、心がざわついてしまった経験はありませんか?

  • 「友引の日にお葬式をしてはいけない」
  • 「夜に爪を切ると、親の死に目に会えない」
  • 「四十九日の法要は、三ヶ月にまたいではいけない」

頭では「迷信だ」とわかっていても、いざ自分のこととなると、なんだか気になってしまいますよね。

「まあ、念のため、やめておこうかな…」

と感じてしまうのが、人情なのかもしれません。

今日は、「迷信」について、お話しいていきたいと思います。

なぜわたしたちは、科学的な根拠がないとわかっているはずの迷信を、こんなにも信じてしまうのでしょうか。

そして、どうすればそういったものに振り回されず、心穏やかに過ごすことができるのでしょうか。

この記事を読み終えるころには、迷信の正体がわかり、情報に惑わされないための、確かな心の持ち方がきっと見つかるはずです。

それでは、はじめていきましょう🎵

*この記事は以下のポッドキャストの文字起こしを元に作成しています。

目次

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日本人がいちばん信じているのは「迷信」かもしれない🤔

「あなたは何を信じて生きていますか?」

もし、そう聞かれたら、あなたはどう答えるでしょうか。

「わたしは仏教徒なので、お釈迦さまの教えを信じています」

「神さまの存在と、その教えを信じています」

人それぞれに、いろんな答えがあるかと思います。

日本は、憲法で「信教の自由」が保障されている、とても寛大な国です。

何を信じてもいいし、複数の信仰を持っていても、まったく問題ありません。

今、日本には約180もの宗教宗派が存在していると言われています。

これは、仏教、神道、キリスト教といった大きなくくりだけではなく、たとえば仏教の中でも「浄土真宗本願寺派」や「真宗大谷派」というように、細かくわけていった数なんですよ。

「180も!そんなにたくさんあるんだ」と驚かれるかもしれませんね。

これだけ選択肢があれば、人それぞれ信じるものが違うのは当たり前です。

10人集まれば、10人とも違う考えを持っている、というのも、ごく自然なことなんですよね。

しかし、です。

その10人のほとんどが、なぜか共通して信じてしまっている教え…というものが、あるような気がするんです。

それが、「迷信」なんじゃないかな、と。

もしかしたら、日本という国でいちばん信じられているのは、この「迷信」なのかもしれない。

ぼくは、お坊さんとして日々を過ごす中で、そんなふうに感じることがあります。

なぜ、そう思うのか。

それをいちばん強く感じるのが、お葬式のときなんです。

「四十九日は三ヶ月にまたいではいけない」の本当の理由😥

お葬式のとき、ぼくはご遺族の方々と、いろんなお話をさせていただきます。

その中で気づくのは、ほとんどの方が、ご自身の家の宗派の教えについて、あまり詳しくご存じではない、ということなんです。

それは決して悪いことではなく、知るきっかけがなかった、というだけなのだと思います。

そして、お葬式後の日程をご説明するときに、多くの方が、心配そうな顔でこうおっしゃるんです。

「あの…四十九日って、三ヶ月にまたがったら、いけないんですよね?」

これこそが、まさに迷信の代表例なんですよ。

「え、でも、近所の人にそう言われたんだけど…」

「親戚のおばちゃんが、すごく気にしていて…」

「インターネットで調べたら、そう書いてありました」

あなたも一度は耳にしたことがあるかもしれませんね。

では、そもそもなぜ「三ヶ月にまたいではいけない」なんて言われるようになったのでしょうか?

実はこれ、単なる語呂合わせから来ているんです。

四十九日(しじゅうくにち)が三ヶ月(みつき)にまたがる。

これを、

「始終苦(しじゅうく)が身(み)につく」

と読んで、「これから先、ずっと苦しみがつきまとうから縁起が悪い」としたわけです。

「ええっ!ただのダジャレみたいなものだったんだ…」

そうなんです。

仏教の教えとは、まったく何の関係もない、あとから誰かが勝手にくっつけた言葉遊びなんですね。

このことをご説明すると、ほとんどの方は「そうだったんですね!」と納得してくださいます。

でも、不思議なことに、納得はしても、やっぱり気になってしまう。

「まあ、そうは言っても、親戚がうるさいから…」

「 何か言われるのも嫌なので、やっぱり2ヶ月で切り上げます」

そうおっしゃるかたが、本当にたくさんおられるんです。

特に、大切なご家族を亡くされた直後というのは、精神的にも、とてもつらい状態ですよね。

心が弱っているとき、冷静な判断がしづらいときだからこそ、たとえ迷信だとわかっていても、「従っておいたほうがいいんじゃないか」という気持ちになってしまう。

そのお気持ちは、痛いほどよくわかります。

でも、よくよく考えてみれば、そこには何の因果関係もありません。

何千年も前から続く仏さまの教えよりも、つい最近作られた語呂合わせのほうを、わたしたちは信じてしまっている。

これって、少し怖いことだとは思いませんか?

ほかにも、

「亡くなった人の魂は、しばらく家の周りをさまよっている」とか、

「お線香の煙に乗って帰ってくるから、火を絶やしてはいけない」とか、

地域独特のものも含めれば、数えきれないほどの迷信があります。

わたしたち日本人は、なぜこんなにも迷信に心を揺さぶられてしまうのでしょうか。

なぜ、わたしたちは迷信に振り回されてしまうのか?💡

「わかってはいるんだけど、周りの目が気になっちゃうんだよね…」

そうですよね。

自分ひとりの考えで、すべてを決められるわけではないですものね。

ぼくが思うに、わたしたちが迷信に振り回されてしまう理由は、大きくふたつある気がします。

ひとつは、先ほどもお話ししたように、信じるものの選択肢が多すぎることです。

180もの宗派があって、信仰は自由。

いろんな情報に触れることができるからこそ、かえって「どれが本当なんだろう?」と迷いやすくなってしまうのかもしれませんね。

そして、もうひとつの理由。

こちらの方が、より本質的かもしれませんが、それは、自分の中に「信じる一本の芯」が定まっていないから、ではないでしょうか。

自分の中に確かな「拠りどころ」がないと、心が不安定になります。

そんなとき、周りの人から不安を煽るような迷信を聞かされると、「そうなのかもしれない」と、簡単に心が揺らいでしまうのです。

逆に言えば、自分の中に「これだけは大丈夫」という確かな拠りどころがあれば、周りが何を言おうと、迷信に振り回されることはなくなるはずなんです。

浄土真宗の教え「門徒もの知らず」🙏

実は、わたしたち浄土真宗の教えでは、迷信や占いといったものを、はっきりと否定します。

「そんなものに、とらわれる必要はありませんよ」というのが、基本的なスタンスなんです。

そのことを象徴する、すこし難しい言葉があります。

「門徒もの知らず」という言葉です。

この言葉だけを聞くと、「浄土真宗の門徒さんは、何も知らない人だ」という、なんだか否定的なイメージを持たれがちです。

実際に、ほかの宗派の方から、「浄土真宗は作法も決まり事もなくて、もの知らずでいいねえ」なんて、皮肉っぽく言われることもあるんですよ。

でも、それは大きな、大きな誤解。

この言葉の本来の意味は、「聞法者(もんと)、ものを知らず」ではありません。

正しくは、「門徒もの忌み(いみ)嫌うことを知らず」と読み解くのです。

「忌み嫌う(いみきらう)」とは、まさに迷信や占い、日柄の良し悪しといった、縁起を担ぐ行いのことです。

つまり、この言葉が本当に伝えたかったのは、

浄土真宗の門徒は、お念仏の教えという確かな拠りどころがあるから、迷信や占いといった、いみ嫌うべきものにとらわれる必要を知らないのです」ということ。

どうでしょうか。

否定的な言葉どころか、むしろ誇りに思うべき、とても尊い言葉だとは思いませんか?

「へぇー!まったく逆の意味だったんだ。むしろ、迷信に惑わされない強さを表す言葉なんですね。」

そうなんです。

お念仏の教えという、決して揺らぐことのない一本の芯。

それを拠りどころとして生きていけばいい。

周りからどんな迷信を聞かされても、何も気にする必要はないのです。

ただただ、お念仏の教えを喜び、まっすぐに歩んでいけばいい。

それが、浄土真宗の教えなんですよ。

まとめ✅

さいごに、この記事のポイントをまとめておきましょう。

  • わたしたちは、宗教の教えよりも「迷信」を信じてしまいがちです。
  • 「四十九日が三ヶ月にまたぐ」といった迷信の多くは、仏教とは関係のない、単なる語呂合わせから生まれています。
  • 迷信に振り回されてしまうのは、自分の中に信じる「一本の芯」が定まっていないからです。
  • 大切なのは、迷信に惑わされず、自分にとっての確かな拠りどころを見つけることです。

何千年という、長い長い時間をかけて受け継がれてきた仏さまの教え。

それと、近所のおばちゃんや、親戚のおじちゃんが口にする迷信。

あなたの心は、どちらを向いているでしょうか。

もちろん、すぐに「一本の芯を持て」と言われても、難しいかもしれません。

それでいいんです。

大切なのは、完璧な信仰者になることではありません。

不確かな情報に心をすり減らすのではなく、自分にとって本当に大切な教えは何か、と立ち止まって考えてみることです。

どんな宗教であれ、どんな宗派であれ、迷信に振り回される必要は一切ありません。

これは、断言できます。

どうぞ、あなたご自身の心の中にある、確かな拠りどころを大切にして生きていってくださいね。

もしあなたが浄土真宗の門徒さまであれば、どうか、お念仏の教えを大切にしていただけたらな、と思います。

さいごまでお読みいただき、本当にありがとうございました。